コラム

セラピスト、カウンセラーの目 (2007.06.28)

お世話になったセラピストさんからコラムの記事を頂きました。
もったいないくらいの記事です。ありがとうございます。

 

Misakiのコラム–by Misaki
「音」
彼女の音を初めて聴いた時、それは懐かしいような、それでいて震えるような、何故だかわからないが心を揺るがすものを感じた。
それは全身を揺るがした「あの時」とまさに同じだった。
もちろん、彼女と私は距離のある所に住んでいる。
そのため、彼女をの音を聴く時は、CDであったりインターネットという世界を通してであったりする。この音を直接この耳に取り込むことが出来たら・・・それは何という幸運だろうと心の底から思っている。

「あの時」はまさに突然だった。
それは一枚の「絵」との出会いだった。
その大きなキャンバスの前に立った時、私は全身に鳥肌が立ったのを覚えている。打たれたかのようにその場に立ちつくし、しばらくの間は動くことが出来なかった。
そして気付けば私は泣いていた。
あれは何だったのか。心地良く心を打ち、時間の流れをゆるやかにさせる、そして体中にあった何かモヤモヤとしたものを洗い流す。
私の中を浄化する、そう「カタルシス」のような役目をしてくれた。
私と「冬華」との出会いだった。

「癒し」という言葉は今やどこにでも溢れている。
例外なく私もその言葉を用い、それが必要不可欠であることをいろいろな場を通して話してきた。
しかし「癒し」が一人歩きしているとふと感じることがある。その言葉だけが勝手に動き出し、前へ前へと押し出されている。
誰もが「癒されなければいけない」という気持ちに駆り立てられる。

確かに「癒し」は心にも身体にも必要であると思う。では「癒し」とは・・・一体何なのだろうか。
私が「自分癒し」に挙げてきたものは「香り」であったり「植物」や「石」、「食べ物」などの「生命体」であり「有機物」であった。それらは自然界に存在し、本来であれば私達の周りに有り余るほど存在していたものだった。
しかし時代は流れそれらが置き去りにされた今、人間にとって欠かせないはずのそういった心や身体を浄化してくれるものが身近になくなり、その存在すらなかなか感じ取ることが出来なくなってしまった。
そして・・・人間の「五感」は鈍くなってきてしまったのかもしれない。

彼女の音に話を戻そう。
私は彼女と出会い、「音」がはかりしれない浄化作用を持っていることに改めて気付かされた。「音」は「物」ではない。人から生み出されている。あるいは人の手によって作られた物で奏でられている。それが何故ここまで心を動かすのか。
そこには「人」という未知の力を持った生命体の息吹が込められているからではないだろうか。
人それぞれ「音」の受け止め方は違う。心地良いと感じる「音」も違う。ただその中で共通していることは、「音」は耳から入ってくるものであるが「心」を「通す」ものだということだ。

音は耳から入り電気信号となって脳に送られる。これが「音」の実態であるから、音の癒し効果とは脳から難しい名前の物質が分泌され心身にリラックス効果をもたらす、という原理になるのだろうがそれだけでは納得が出来ない。「あの時」感じた「カタルシス」は本当に脳から放出される物質だけによるものなのだろうか。
心が震え、心が泣き、心が喜ぶ「音」は優しい。それは「癒し」であり、人にとって必要不可欠な「聴覚」を再認識させる重要なものなのだと改めて感じている。

「感動する」ということは人の内面を揺るがし、その内側から喜びや快感を呼び起こすことだ。一言で言い表すことは本当はしたくないが、私は彼女の「音」に「感動」した。
そして私達に元々備わっている「五感」の再認識によって、「感動する」という「癒し」が得られることを痛感した。
あの「絵」と彼女の「音」はとても良く似ている。
いつもは「視覚」や「聴覚」は当たり前のこととして忘れ去られている。しかしある時ふとその重みに気が付く。それを再認識することによって確かな「何か」を得ることが出来る。
確かな「何か」、それはまるで不確かなもののようだが、感じ取ることは人それぞれであって得るものが人それぞれ違うからだ。人それぞれきっと「何か」を得ることが出来る。それが究極の「癒し」・・・。 私は愛すべき彼女の「音」に感謝をしながら、もう一度、原点に戻った「癒し」を見つめなければいけないと感じている。

文:(セラピスト・カウンセラー)Misaki