Category: コラム
Posted by: sala
私は非常に長い間、正確に言えばつい最近まで緊張、上がりにより音を思うように表現するということが出来ずにとても悩んでいました。師事していた先生には技術的なことよりもメンタルトレーニングをしたほうが良いとまで言われていました。(もちろん音楽的なことはこれからずっと先まで研究する必要がありますが)

それだけではない、様々な理由で以前から興味のあった心理学、心理カウンセリングの世界へ飛び込みました。そこで自分のことを見つめなおすという辛い作業も伴いました。何故、自分がこれほどまでに人前で演奏するときに緊張してしまうのか。それは、私の場合ですが、「恥をかきたくない」という想いが強かったのでした。何故恥をかきたくないか・・・。失敗を恐れる理由はいろいろ挙げられます。他の人にはまたそれぞれな理由があります。それはなにも音楽上に限ったものではなく、心の隅にある小さな傷の積み重ねも関係しているのではないかと感じ学びました。

たぶん、どんな人でも心の奥深く傷として残っているものはあると思います。しかし、それがどんなときに表面化するかは自分には分からないことでもあります。そしてまた、長い年月を経ていろいろな場面で緊張することを学習してきてしまっているのも事実です。それが悪いとか良いとかを言いたいのではありません。本当は楽に上達するはずのものも、人それぞれ違う「緊張」状態でそれが阻害されるということもあり得るということなのです。

上達するにはさまざまな壁を乗り越えなければならないことは確かです。物事を達成するにはそれなりのエネルギーが必要でもあります。しかし、もしその壁をもう少し楽に越えることができたら、次のハードルも越えられる自信に繋がるのではないかと考えました。肉体的トレーニングが辛くても、精神的な負担が少なければ少ないほどそれは容易になると思うようになりました。乗り越えた壁の向こうには素晴らしい世界が待っているかもしれません。

ある書籍の中で、何の本だったか思い出せませんが、(思いだしたら紹介したいと思います)、バイオリニストであり作曲家で天才といわれたクライスラーはバイオリンを弾く上で苦しいと感じたことはない、練習もしなかったそうです。そこである人が初見で間違いなく弾いてしまうということに、「緊張はしないのか?」という問いに対し、クライスラーは「私は緊張したこはない。」という言葉を残したそうです。しかし、ここで気をつけていただきたいのですが、練習をしなくても名手になれる、という意味ではないのです。練習していること、それ自体本人が自覚できないほどの「音と遊ぶ」という精神が備わっているということです。練習が遊びとなるほどの集中力を持てたなら、真に音を楽しむことができるのです。これは何も音楽に限ったことではありません。

そうは言っても、私たちは「○○のように立派になるためには、努力と忍耐が無ければならない」「・・・ねばならない」と学習してきました。確かに、クライスラーのような人を端から見れば、あたかも「血の滲むような努力」をしているかのように見えても、本人にとってはそれは「遊び」としか思わないものだとしたらどうでしょう?「怒られるから」「練習しなきゃ落ちこぼれる」という自己否定的な思い、ある種の恐怖感で心を埋められていたら、そこに不必要な緊張が生まれます。そして自由なのびのびとした音のコミュニケートが阻まれるように思います。

緊張状態はある意味気をひきしめられるという良い面もありますが、多くはそれはストレスとなり、自律神経に異常をきたし、長い間蓄積され、結果として筋肉を硬直させてしまう要因になり得るのです。また、精神的な緊張から伴う筋肉の硬直は身体の歪みも作ってしまいます。歪みから生じるさまざまな身体的負担も増し、悪循環になるように思うのです。

さて、そこで、私たちはどうしたらそこから解放されるか。自己の内面を見つめることも大事でしょうが、とにかく「緊張→筋肉の硬直」から開放されるようになれば良いことです。身体の奥深くからエネルギーに満ちた息で、のびのびと広がる音が出せるように、あるいは、音楽でなくても。しかし、筋肉の硬直をとることは至難の業です。

私は長い間の経験から、演奏時における「震え」が来たときに震えているところからまったく別のところへ意識を向けていくことで対処していました。しかし、それもなかなか上手くいかないときのほうが多くありました。手の震えはどうにでもなると思うのですが、顎にいってしまうと音に影響するので大変です。そのときに集中の糸が切れて普段間違わないミスもおかしかねません。顎が震えてきたら丹田に意識を集めたりします。(もっとも、本人がそんなことで苦しんでいるなどと聴きにきてくださっている方々には分からないものなのですが、、、)

しかし、場数をこなしても、どんな小さなコンサートでもある程度までは舞台慣れはしたものの、同じことの繰り返しでした。何故か、と自分でいつも問いかけをしていました。そこには自分への否定的な言葉がそうさせていることに気づいたのです。本番が近くなれば、「もし、○○だったら、失敗する」「失敗したら○○になってしまう」という言葉で毎日練習していたことに。練習すればするほど筋肉が固まり思うようにならない。でも練習しないとさらに悪化するのではないか、と自分を恐怖で埋め尽くしていました。自分を信じることができなかったのです。結果自律神経にも影響を及ぼしました。そうではなく、肯定的なイメージで自己暗示にかけていたら(所謂イメージトレーニング)、身体的な異常(腱鞘炎や慢性的な肩こりなど)も伴わずに済んだのではないかということです。

ある日、師事していた先生から自律訓練法やセルフコントロールについて教えていただきました。演奏家になるために、音楽学校(ヨーロッパ)でも授業の一環として取り入れられていた、ということでした。

ちょうど、そのころカウンセリングの講座で知り合った友人がかなり長い間「自律訓練法」をしていて、心理カウンセラーとして指導する立場にもなっていたので、指導を受けることになりました。自分ではなかなか出来なかったことも、友人の素晴らしい誘導のもと1ヶ月に1度通い、家ではデモCDを聞きながら毎日行いました。誘導の中には肯定的な言葉もしっかり入ってはいました。しかし、しばらくは効果として感じるものはあまりありませんでした。脱力法もフルートを吹く上では必要不可欠のものだったので難なく出来たし、温感もすぐにつかめましたが、肝心の舞台の上では効き目なしといったところでした。

それから丁度1年くらい経った頃、いつのまにか筋肉の硬直、こわばりが半減し、自分の中でははっきりとはわからない、変わった自分を発見したのです。それまでの肩こりも今はほとんど苦痛にならないほどになり、本番でも不本意だったことも引きずることも無いのに気がついたのです。ある部分でのストレス耐性ができたのではないかと思っています。自分のなかでの「失敗」とは一体なんだったのか・・・。肯定的なイメージの大切さをほんの少しですが実感したようです。

思えば、私は10年前に一度勧められた「自律訓練法」ですが、毎日続けるということあっさりと諦めてしまいました。今はもっと早くにきちんと指導を受けながら行っていたら・・・と思ってます。

リラックスやセルフコントロールには人ぞれぞれ、続けていく方法を選択していく自由があります。その中に「自律訓練法」を選択肢として置いてみるのも良いと思います。ただ、私がそうであるように、自分自身で選択して実行する、というものでなければなりません。強制するものであってはいけないと。(そういう私はそのときの状況でついつい勧めてしまうことがありますが・・・。)

※自律訓練法は心療内科、心理カウンセリングルームなどで(無いところもありますが)指導してくれるところがあります。身体的な持病を持っている場合注意しなければならないことがありますので、持病をお持ちの方は主治医や診療内科などで相談されながら行うことをお勧めします。

自律訓練についていくつか質問がありましたのが、その道の専門職ではないので下記の書籍を参考されることをお勧めいたします。
▲自律訓練法の実際―心身の健のために…佐々木 雄二 (著)

2004/10/26

Category: コラム
Posted by: sala
このページではセラピストやカウンセラーから認識する音楽と癒しに関してのコラムをご紹介します。私がお世話になっている横浜在住のカウンセラー”Selfee”を運営しています春咲氏のコラムです。

私は彼女のそのストレートで力強く、それでいて分かりやすく暖かい文章で綴られたコラムが大好きです。そんな春咲氏の思う「音楽」と「癒し」について当サイトでの掲載をお願いし、とうとう念願が叶い今回記事にすることができましたのでここでご紹介したいと思います。この場を借りて春咲氏に感謝いたします。

「音」


コラム--by Misaki

彼女の音を初めて聴いた時、それは懐かしいような、それでいて震えるような、何故だかわからないが心を揺るがすものを感じた。
それは全身を揺るがした「あの時」とまさに同じだった。

もちろん、彼女と私は距離のある所に住んでいる。
そのため、彼女をの音を聴く時は、CDであったりインターネットという世界を通してであったりする。この音を直接この耳に取り込むことが出来たら・・・それは何という幸運だろうと心の底から思っている。

「あの時」はまさに突然だった。
それは一枚の「絵」との出会いだった。
その大きなキャンバスの前に立った時、私は全身に鳥肌が立ったのを覚えている。打たれたかのようにその場に立ちつくし、しばらくの間は動くことが出来なかった。
そして気付けば私は泣いていた。
あれは何だったのか。心地良く心を打ち、時間の流れをゆるやかにさせる、そして体中にあった何かモヤモヤとしたものを洗い流す。
私の中を浄化する、そう「カタルシス」のような役目をしてくれた。
私と「冬華」との出会いだった。

「癒し」という言葉は今やどこにでも溢れている。
例外なく私もその言葉を用い、それが必要不可欠であることをいろいろな場を通して話してきた。
しかし「癒し」が一人歩きしているとふと感じることがある。その言葉だけが勝手に動き出し、前へ前へと押し出されている。
誰もが「癒されなければいけない」という気持ちに駆り立てられる。
確かに「癒し」は心にも身体にも必要であると思う。では「癒し」とは・・・一体何なのだろうか。

私が「自分癒し」に挙げてきたものは「香り」であったり「植物」や「石」、「食べ物」などの「生命体」であり「有機物」であった。それらは自然界に存在し、本来であれば私達の周りに有り余るほど存在していたものだった。
しかし時代は流れそれらが置き去りにされた今、人間にとって欠かせないはずのそういった心や身体を浄化してくれるものが身近になくなり、その存在すらなかなか感じ取ることが出来なくなってしまった。
そして・・・人間の「五感」は鈍くなってきてしまったのかもしれない。

彼女の音に話を戻そう。
私は彼女と出会い、「音」がはかりしれない浄化作用を持っていることに改めて気付かされた。「音」は「物」ではない。人から生み出されている。あるいは人の手によって作られた物で奏でられている。それが何故ここまで心を動かすのか。
そこには「人」という未知の力を持った生命体の息吹が込められているからではないだろうか。

人それぞれ「音」の受け止め方は違う。心地良いと感じる「音」も違う。ただその中で共通していることは、「音」は耳から入ってくるものであるが「心」を「通す」ものだということだ。
音は耳から入り電気信号となって脳に送られる。これが「音」の実態であるから、音の癒し効果とは脳から難しい名前の物質が分泌され心身にリラックス効果をもたらす、という原理になるのだろうがそれだけでは納得が出来ない。「あの時」感じた「カタルシス」は本当に脳から放出される物質だけによるものなのだろうか。

心が震え、心が泣き、心が喜ぶ「音」は優しい。それは「癒し」であり、人にとって必要不可欠な「聴覚」を再認識させる重要なものなのだと改めて感じている。
「感動する」ということは人の内面を揺るがし、その内側から喜びや快感を呼び起こすことだ。一言で言い表すことは本当はしたくないが、私は彼女の「音」に「感動」した。
そして私達に元々備わっている「五感」の再認識によって、「感動する」という「癒し」が得られることを痛感した。

あの「絵」と彼女の「音」はとても良く似ている。
いつもは「視覚」や「聴覚」は当たり前のこととして忘れ去られている。しかしある時ふとその重みに気が付く。それを再認識することによって確かな「何か」を得ることが出来る。
確かな「何か」、それはまるで不確かなもののようだが、感じ取ることは人それぞれであって得るものが人それぞれ違うからだ。人それぞれきっと「何か」を得ることが出来る。それが究極の「癒し」・・・。

私は愛すべき彼女の「音」に感謝をしながら、もう一度、原点に戻った「癒し」を見つめなければいけないと感じている。

文:(セラピスト・カウンセラー)春咲

▼記事を送ってくださった春咲さんのサイト
カウンセリングと癒しの部屋「ゼネラルテラピーサロン”Selfee”」へ

2004/06/28

Category: コラム
Posted by: sala
人間は皆呼吸をします。単純に考えれば「息」を吐いたり吸ったりする連続の動作です。無意識に、そして必要不可欠なこの単純な動作、普段私たちは何気なくしていることでしょう。さて、その単純な動作とはいえ、呼吸の仕方で普段の生活が少し変化をもたらしてくれる重要な動作ともいえます。

歌を歌う人、管楽器を吹く者は誰もが思うことかもしれませんが、この呼吸法によって曲全体の流れが決まるとも言えるように私は思います。ちなみに、私は笛吹きですが、呼吸に関してはまだまだと思っています。呼吸法に始まり、呼吸法に終わる、と言っても良いかもしれません。単純に呼吸法といってもひとつではないのです。管楽器奏者は息のスピードを一定に保ち、できるだけ長いフレーズを歌い上げなければなりません。

では、息に焦点を当ててみます。

「息」とはその「自ら」の「心」と書きます。私はここで日本語の深さを実感いたします。息は心を吐き出す、ということじゃないか、とも思います。息を上手く吐き出すことは心の開放に繋がるのではないでしょうか?その息を楽器という物体に吹きかけ音にするとき、楽器が命を持つようになり、また、管楽器奏者や歌手は自分の心を解放しているともいえます。それが、所謂、歌い上げる、表現するということなのです。言葉が存在しなくとも万人に伝えることことができる音楽となっていくのです。

長いフレーズを演奏するときはそれだけ長い息を必要とし、それを支える腹筋が必要になります。これは訓練ですが、私は長年フルートを吹いていることで随分と精神面で支えられてきたように思います。ようするに訓練すればするほど、気を長く保つことにもなるし、脳を活性化しイメージも持ちやすくなり健康にも良いのです。

これは単なる自分の経験から得られたものでしかないのですが、それでも時として耐え難いような問題に直面したときはそうはうまくはいきません。しかし、よく「一呼吸置いてから」という言葉がありますが、深く時間をかけて呼吸をしていると冷静に物事を捉えられるようになります。少なくとも私自身のことではありますが・・・。これは、長い訓練の中で無意識に身についた自己防衛とも言えるかも知れません。

そのかたくなった心を息を使い音にし歌うことによって、気持ちが落ち着き開放されてくるように思います。(逆に言えば自分が抱えている問題が大きければ、自分の出す音も濁って聞こえるともいえます。体調によっても音は変わります。それだけ息がもたらすエネルギーは大きいと言えます。)ほんとうに、ごくごく単純なこの呼吸することを探求するときりがありません。

腹式呼吸でゆっくりと吐いたり吸ったりする動作は何も音を奏でるだけのものではないのです。意識して呼吸をすることによって、自分の身体や心を観察せざるを得なくなる、と私は思います。一定のスピードを一定の時間呼吸することは単純でいて実はとても難しいのではないかとも思います。ヨガや瞑想、武道、スポーツなど、呼吸をとても大切にします。もちろん、そういった正しい呼吸をするには身体に余計な緊張や力が入っていると上手くできません。(この呼吸法についてはまた改めて記したいと思っています。)

私の尊敬するオーレル・ニコレというフルート奏者がおりましたが、ニコレが残した数々の言葉やエピソードはとても興味深いものが沢山残されています。私が記憶しているものの中ではある音楽系の雑誌に紹介された対談集の一文ですが、「日本の禅はとても良い。禅はまさにフルートの呼吸に近い。」と言っていたことです。その言葉は大人になったときまで私の心の隅にいつもありました。その後何かのきっかけで、禅の呼吸を3回ほど体験することになりました。忙しさのあまり続けることができませんでしたが、ニコレの言いたいことが少しわかったように思います。ニコレのあの温かみのある柔らかい重厚な音色の原点はやはり呼吸だったように思います。

長い息を持続させるということは、これはこじつけになるかもしれませんが、「心を支える」ということになるように思います。日本はフルート人口はとても多く愛好家が多いのはもしかしたらそんなところもあるのかもしれません。

しかし、私がフルートを選んだのは何故でしょう?例えば、訓練すれば綺麗な声で歌えたとしても、私は歌は歌わなかったように思います。表現する手段は楽器でなければならなかった理由がありますが、ここでは長くなるので割愛いたします。(単に声を出すのが恥ずかしい、、、ということもあるでしょうが・・・。)呼吸法を活用するものはこの世には沢山あります。どんなに些細なことでも意識する場はいたるところにあるように思います。意識して楽しんで呼吸を観察できるものがあれば是非試してみてください。

2004/04/20